ざっくり版
あなたがリンゴを見るとき、目に光が入って、神経が信号を送って、脳が反応します。ここまでは科学でくわしく説明できます。
でも、こう聞かれたらどうでしょう。
どうして、その脳のはたらきに「赤いなあ」という“感じ”がくっついてくるの?
脳の中で電気信号が走っているだけなら、ロボットみたいに何も感じなくてもいいはずです。それなのに、わたしたちには実際に「見えている感じ」「痛い感じ」があります。これはなぜなのか、まだ誰も説明できていません。
科学者たちはいろいろな答えを出してきました。「脳の情報がたくさんつながると意識が生まれる」「脳の広い範囲に情報が伝わると意識になる」「量子のふしぎな性質が関係している」——けれど、どの説明のあとにも、同じ問いが残ってしまいます。
「で、どうしてそれに“感じ”がくっつくの?」
この論文(もとの文章)は、「答えが見つからないのは、説明が下手だからではなく、問いの形そのものにヒミツがあるからではないか」と考えます。
むかしから、たくさんの哲学者が心について考えてきました。そして、いつも同じところでつまずいています。
説明の箱をきれいに作ったつもりでも、フタが閉まらない。いつも何かが箱に入りきらずに残ってしまうのです。
「心って何?」と問いを立てた瞬間、その問い自体も「説明できないもの」の仲間入りをしてしまう。
「わたし(見る人)」と「心(見られるもの)」を切り分けて、外から観察しよう——そう思った時点で、すでに切り分けるという行為をしています。そしてその行為自体が、また説明できないものを生み出してしまう。だから、完全に外側に立って心をながめることができないのです。
自分の目で、自分の目玉そのものを直接見ることはできません。鏡を使えば?——でも、その「鏡に映った目を見ている目」は、やっぱり見えません。どこまでいっても「見ている自分」が外に残り続けます。
もとの論文では、この「いつまでも終わらない感じ」を、4つの言葉で説明しています。(もとの論文では「差分回収運動」と呼んでいます。)
ただし、これは説明しやすくするための図です。実際は①→②→③…と順番に起きるのではなく、ぜんぶ同時にぐるぐる起きています。
こぼれるものがあるから、この運動は止まらずに続いていられる。もし全部きれいに片づいてしまったら、ちがいが消えて、動きは止まってしまいます。
部屋を片づけても、なぜかまた散らかる。イライラしますが、もし「二度と散らからない完璧な部屋」になったら、片づけという行為そのものが消えてなくなります。つまり「散らかること」は片づけの失敗ではなく、片づけが存在するための条件なのです。
「ここはまだ説明できていないぞ」と指をさすと、その瞬間に「指さす」という新しい線引きをしたことになります。すると、また新しいちがいと、新しいこぼれが生まれる。外から安全にながめられる場所は、どこにもないのです。
まずはっきりさせておきます。この論文は「こぼれるもの=心(意識)だ」とは言い切っていません。そう断言できる証拠がないからです。
言っているのは、もっと控えめなこと。「この2つ、形がすごく似ているぞ」ということです。
この「似ている」という気づきは、答えではありません。でも、だいじなヒントかもしれない——というのがこの論文の立場です。
この論文は、自分の弱いところも正直に書いています。ここが誠実でカッコいいところです。
① 橋がかかっていない:「ぐるぐる回る運動」を説明できても、「なぜそこに“感じ”がくっつくのか」はやっぱり説明できていません。
② 問いそのものが飲みこまれる:「なぜ感じがあるの?」という問い自体が、ぐるぐるの中に飲みこまれてしまいます。答えが届く場所があるのかどうかも分かりません。
③ 「こぼれるもの」の正体が不明:こぼれたものが「はたらき」としてどう動くかは書けても、それが何なのかは書けていません。
④ この論文自身も外側にいない:この論文だって「線を引いて説明しようとする行為」です。つまり、自分が説明しているぐるぐるの中に、自分も入ってしまっている可能性があります。
問いは答えに届かないかもしれません。それでも、「どういうふうに届かないのか」の形がはっきりしてくることには意味がある——というのが、この論文の結論です。
※ この文章は未完成です。「ここ、おかしくない?」という発見は大歓迎です。